1958年のブリュッセル万博から50年だそうです。第2次世界大戦後初めての博覧会で、テーマは「科学文明とヒューマニズム」。2年ほど前にリニューアルオープンしたブリュッセル郊外の観光スポットアトミウムが建てられたのもこのとき。人類史上初の人工衛星スプートニクの模型やル・コルビュジエ設計のフィリップス・パビリオンなど、科学技術の進歩を前面に押し出した展示が話題になりました。
この万博はベルギーのコンゴ併合50年を記念した催しでもあり、コンゴから連れてこられた人々が現地の村を模した囲いの中で展示されていました。もっとも、植民地の原住民と集落の展示はブリュッセルに始まったことではなく、1883年のアムステルダム国際博覧会のあたりから行われていたそうですが。
当時の映像をまとめた中で、木の柵の向こうに群がる見物人からバナナか何かをもらう小さな女の子の姿がありました。で考えたのがこの本のこと。
1983年。19歳の学生Frank Westermanは、スペインをヒッチハイク中。 偶然立ち寄ったカタルーニャ州バニョレスの博物館で「それ」を初めて目にします。腰蓑をつけ、槍を持ったブッシュマンの標本。開発援助の仕事を志す青年にとっては衝撃的な体験でした。
El Negroと呼ばれていた「それ」は、一体誰か。どのようにしてこの街にたどりついたのか。ジャーナリストとなった著者は、El Negroの謎を探り始めます。最初の確実な証拠は1831年。この年にアフリカからパリに送られ、1888年にはバルセロナの収集家が引き取ったこと、その後この収集家の名前を冠したバニョレスの博物館に移されたことは突き止めました。足取りをたどる中で、探検家たちが埋葬されていた遺体を「入手」したことも分かりました。そうまでするには、当時どのような事情が、さらには思想があったのか。
著者は実際に開発援助に携わり、現場で植民地主義や人種差別というテーマを考え続けていました。El Negroをめぐる旅とあわせて、理想と情熱が幻滅に変わった著者の実体験も語られていきます。
El Negroの「死後の生」は、遺骨がアフリカに返還された2000年に区切りがつきます。用意された安住の地は、1830年にはまだ存在しなかった国ボツワナ。著者はEl Negroは現在の南アフリカの出身であると考え、調査を続けます。こうして、El Negroの足跡を追いかける旅は、アパルトヘイトを経た社会で終息を迎えるのですが、同時に人種や文化のとらえ方に対する現代の問題を突きつけてもいます。
Frank Westerman - El Negro en ik, Olympus, ISBN13 978 90 467 00583
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