2011年7月12日火曜日

『親愛なるキティーたちへ』

オランダに来て何年かしてからのこと。ゴッホ美術館で、展示されている手紙が読めてびっくりした。19世紀の手書きの文章で判読できないところもあったけれど、ゴッホがオランダ語で語りかけていて、自分がそれに—ほんのかけらながら—直接触れているというのは不思議だった。

『親愛なるキティーたちへ』(小林エリカ著、リトルモア)を読みながらそのことを思い出した。アンネ・フランクの日記と著者の父・小林司氏の少年時代の日記とともに、アンネの足跡をたどる旅の記録。ドイツ、ポーランド、オランダ、再びドイツへ。著者の旅日記は、アンネ(1929 - 1945)の隠れ家生活と小林少年(1929 - 2010)の終戦前後の日々、史実の断片と交互に紡がれる。収容所から隠れ家、そしてアンネが生まれた家を探し当てて東京に戻るまでの17日間の記述とスケッチ。街を歩き、人と会い、言葉を交わして別れる。降りるバス停を間違え、道に迷い、無賃乗車がバレて罰金をとられてへこむ。どれも著者がいるその場所を少し離れたところから眺めている感覚。色付き・音付きだとちゃんとわかるのに、画面がミュートになっているような。

アンネと著者の父は、同じ年に生まれ、アムステルダムと金沢で同じように日記をつけていた。1945年、アンネは収容所に消えたが、父は戦争を生き延び、著者の今がある。「お姉さん」であったはずのアンネの年齢をとうに超えて、2010年のいま、自由に旅をし、絵を描き、文章を記すこと。それはアンネと少年時代の父が生きた時間と確実につながっている。そしてまた、この先にある時間とも。
一体全体、その時代に生きていた人たちは、こんなにも無惨に人が殺されてゆくのを、いったい、どうして平気で見過ごすことなんてできたのだろう。けれどどうして、そんな事態を、誰一人止めることができなかったのだろう。そこに生きていた人々は野蛮人ではない。学校へ行って、本だって読んでいた。
[...]
 しかし、今を生きる私は、それとまったく同じ問いを後に投げかけられることになるのだろうか?
 この[原文では傍点]時代に生きていた人たちは、こんなにも無惨に人が殺されてゆくのを、いったい、どうして平気で見過ごすことなんてできたのだろう。
 けれどどうして、いま私たちはたったいま起きている事態を、誰一人止めることができないのだろう。(50—51ページ)
ところで、今の私にとってオランダ語は生活する言葉だ。『アンネの日記』の原書(Het Achterhuis)も、同世代のオランダ人で自発的に全部読んだという人をあまり知らないが、何回か目を通している。 いつもなんとなくしっくりこないのには単純な理由がある。ゴッホとは違い、アンネは私の中ではあくまで日本語でキティーに手紙を書いているからだ。

子どもの頃繰り返し読んだ『アンネの日記』。たくさん持っていた関連本には写真集まであって、外国の(戦争の頃の)話であること、自分で手紙を書くときに「親愛なる...」と始めないことはわかっていた。それでも、アンネの声はどこか知らないところから当時の私が読み書きできる言葉で響き、それが私の『アンネの日記』になった。だから、『親愛なるキティーたちへ』に引用されるアンネの日記は、小林司・エリカ父娘による記述とまったく同列。距離と時間で隔てられてはいても、あるときの誰かの思いを日本語で切り取ったものだ。アンネも、小林少年も、著者自身も、それぞれに抱えた不安や希望を書き留めながら、少し先の未来へ進もうとしている。

旅の終わり、成田に到着した著者は実家に電話をかける。母と、その後かわった父の「おかえり」の声。今ここにいるからこそ、この言葉をかけてくれる人がいる。そのことに著者はその時気づいていただろうか。

小林エリカ著、『親愛なるキティーたちへ』、リトルモア、2011年、ISBN: 978-4-89815-312-3.